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怪我で済んだわ

デパ地下の鰻重、多すぎるピザ、2行目の誤植

塾長が死んだのはわたしが大学2回生になってすぐのことだった。その頃わたしは自分がやるって言った大学のピアサポート団体業が本番(4月になり、新入生が入学したので)に入ったばかりで毎日へろへろで、さらに少ない空き時間にねじ込むようにバイトを入れていた。当時は飲食店で働いていた。

わたしは家から2時間かかる大学に通っていたうえに、ほとんど毎日1限スタートで、ということは7時前に家を出なければ9時に始まる授業には間に合わず、バイトは23時までのシフトが主だったため、当然帰宅は0時を回る。家というかもはや地元にいる時間は寝てる時間だけと言っても過言ではなかった。父さんはその前の年の暮れに、最寄り駅の近くで塾長に会ったと言っていた。狡いと思ったし、今もちょっとまだ思う。わたしが最後に会ったのは死ぬ前の年か、その前の、とにかく夏。夏休みだった。高校生だった気がするから、前の前の年で合ってるのかもしれない。塾が閉まったのは冬。高2の。だからそれは死ぬ前の前の前の年だ。そう年末だった。消印の押されていない封筒、誰かしらが(それこそ塾長本人だったのかもしれないが、もうわからないしわかる方法がない)うちのポストに直接投函した塾の封筒。わたしはこれらに関することを大方夏に思い出す傾向にある。

塾長は結構ドラマチックなのを好む傾向にあったのか、あの人の書く文章はいつも大層だった。少しの間、お別れを言わなければならなくなりました。自分の病状とこれからのことを必要以上に事細かに書いてあった。そんなに詳細を明かすもんでもないのではと思ったけど、塾長はそういう人だった。アホほど物の多い塾から全部が運び出され、わたしたちは解散となった。

その次の夏塾長に会った。これが最後だったことをちゃんと覚えている。ひどく痩せてしまったこと以外は特に変わらなかった。どういう顔をしていればいいのかわからなかった(どこぞの零号機パイロットだという話だ)が、母さんがデパートで鰻重を買ってきてもう余計わからなくなった。あれ食べれたのかなあ。その日、わたしはおそらく別れは遠くないのだろうということを思った。そして、わたしはどういう顔をすればいいのかわからない癖に、思っていることが全部顔に出てしまうくちだった。変な顔してたんだろうな

塾長は変な人だったし、塾には変な人しかいなかった。エレノアで書いた通りバイトくんの送別会をやったことがあるんだけど、信じられないぐらい張り切ってめちゃくちゃピザを頼んで意味がわからなかった。塾にピザ屋来たことある?マジで意味わからない量来た。この人は加減というものを知らないのか、というのを、10年通ううちに何度思ったかわからない。多分本当に加減とか知らなかったんだと思う。

中2くらいのとき、塾行ったら常軌を逸してる量のビラが積まれてて引いた。この地区全部のポストに投函しても余るだろぐらいの量が積まれていた。やっぱり加減がわからないんだと思う。やばいよ、令和でそれやったら顰蹙どころの騒ぎじゃないよ。しかも2行めで誤字ってる。復習が復讐になってて、塾経営者のパソコンでふくしゅうって打って復習より先に復讐は出てこないだろ、塾長っていうのは世を忍ぶ仮の姿でほんまはやばいことやっとったんかもしれんけどな

永遠に生きそうだった塾長は死んでしまった。死んだよって聞いてお通夜に行って、平日だったから、お葬式は行かなかった。多分授業とんで行ったら詰めてきそうな人だったからやめた。わたしはなかなかおもしろい生徒だったと思うけど、どうだった?